権力者 昔の女性バージョン

その時: 神護景雲3(769)年10月1日
出来事: 道鏡を皇位につけるように告げた神託が覆る


古代最後の女帝・孝謙天皇。

彼女は皇位継承の責任を負いながら、一生結婚することが許されない悲しき女帝だった。
華麗な仏教美術が花咲いた奈良時代の天平期。その頂点にあるのが東大寺大仏だ。
しかし大仏を発願した聖武天皇は男子に恵まれず、遺言を一人娘の孝謙に託した。
「天下はお前に授けた。王を奴婢にするのも、奴婢を王にするのもなんじの自由だ。」
孝謙に託された聖武の遺言は、仏教政治の発展と皇位の継承という二つの宿題だった。
女帝を認めない貴族社会の風潮と、国を二分した藤原仲麻呂との対決を乗り越えたとき、
孝謙は称徳天皇として再即位し、ついに僧・道鏡への譲位という結論にたどり着く。
それは、父の宿題を合理的に解決する彼女なりの究極の選択だった。
しかし、その選択をめぐって再び貴族たちが内乱を起こそうとの動きを示したとき、
彼女が下した決断とは…?
孝謙・称徳天皇は、後世、堕落した女帝として悪評がたつが、最近の研究からは、
政権をほしいままにする藤原氏に対抗して国政を守り、仏教興隆に努めたことが
再評価されている。

奈良時代の衣装や、平城宮大極殿での即位式の様子、東大寺大仏殿をセットやデジタル技術を用いて再現。華麗なる天平の朝廷絵巻…。時代の舵を大きく切った、女帝の数奇な運命を描く。


番組で紹介した孝謙・称徳天皇の言葉について
「天下はなんじに授けた。王を奴婢にするのも、奴婢を王にするのもなんじの自由だ。」
天平宝字8(764)年10月9日、淳仁天皇を淡路島に配流したときに、孝謙上皇が残した詔より。かつて聖武上皇が自分に語った言葉として紹介している。

「私の子供は、この皇太子一人。」「私だと思って二心無く仕えよ」
神護景雲3(769)年10月1日、和気清麻呂を大隅に配流した後に称徳天皇が残した詔より。同じく聖武の言葉として紹介している。

「仏法僧の三宝を盛んにせよ。」
同じ日の詔より。聖武が孝謙/称徳に大切にせよと言い残した筆頭に仏教を挙げ、「天神・地祇の祭祀」「天下の諸人民を慈しめ」と続く。

「私が新しく立てた天皇なのに、淳仁は私に恭しく従うことがない。」
「暴言を吐き、無礼を働いた。」
「祭礼など小さいことは今の天皇が行え。国家の大事と賞罰は私が行う。」

天平宝字6(762)年6月3日の孝謙上皇の詔より。孝謙上皇と淳仁天皇は改修中の平城宮から出て、仲麻呂が、根拠地の近江に築いた離宮に住んでいた。上皇は保良宮を出て、法華寺に別居した理由を述べ、淳仁から実権を取り戻す宣言を行う。

「今回の神託について、清麻呂らと謀った者がいることは知っている。謀りごとをたくらんだ者は心を改めて以後は仕えよ。」
「そもそも君主の位というものは、願い求めても得ることは難しい。」
「やはり仏や神がお許しにならないならば…かえって身を滅ぼし災いを蒙り、自分も人も罪に陥ってしまう。」

神護景雲3(769)年10月1日の詔。道鏡を皇位につけることを否定した。この日に「恕」と書かれた長さ8尺の帯を、5位以上の臣下と藤原氏全員に配った。



先日、黒岩重吾さんの鬼道の女王 卑弥呼を読んで、

霊能力とともに為政者としての判断力、人の世の中の常識が大切だと思った。
今、続けて、神功皇后の話を読んで、空振りを喰らったような気になっていますが…。

いつも、称徳天皇の話を聞いて、思うのだが、なぜ中継ぎの天皇だと思われている
女性天皇が、こんなに権力があったのだろうかと疑問に思う。
どのような権力、政治力、財力があったのだろう。

知らない。だから、少し知識を得るためにこの件に関する書籍を
読んでみようと思った。


後、気になること。
道鏡を天皇にしなさいという信託を出した、大宰府の立場は
どうなるのかしら。

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